直線上に配置

日本の教育

見直そう

直線上に配置

 
 真の生きる力のために
 戦後の終焉が決定的になる中,日本の復興・経済発展を支えてきた教育制度も新たな時代の目的に添った形式を模索しつつあります。21世紀を迎えたの教育の方向性を大まかにまとめると『家庭・地域・学校が一体となって子供たちに心豊かな人間形成と,個人の特性を活かし「生きる力」を育む教育を行ない,チャレンジ精神と行動力を持った,たくましい日本人を育成する』ということになると思われます

 では果たして生活してゆくために必要な知識や知恵、学力が「生きる力」でしょうか。私はそこに「何のために」という項目を付け加える必要があると考えます。
 GHQの占領から戦後の教育が始まりました、それによって出来上がった教育基本法は当時の占領軍にとって都合のいいものであったと思われます。アメリカをモデルにした、民主主義、資本主義は国民に豊かさをもたらしました。豊かになることが悪いことではありません。しかしそれは「何のため」だったのでしょうか。結論から言うと豊かさを享受するためだけにに機能し、終わっていた。のではないかということです。
 そこで「生きがい」と言うことが盛んに言われました。しかし生きがいとは趣味や使命感の問題だけでしょうか。「生きがい」や「生きる力」に近づけば近づくほど、日本人としての生き方、メンタリティ、アイデンティということを考えないわけにいかないのではないかと考えます。かといって私は「何のため」のところに「国家のために」などといった反動的な一語をはめる気もさらさらありませんが、ここにいたると日本の教育が戦後日本の伝統を排除し過ぎてきた弊害に、注目せざるを得ません。そういえば教育改革国民会議のなかでも、日本人としてのアイデンティティや伝統に即した教育を考えることが必要である、という議論が頻発していたのが思い出されます。
 そこで以下では今回は戦後の教育の変化を4つのポイントで語っています。「軍国主義から平和主義へ」「全体主義から個人主義へ」「国家神道体制から社会の非宗教化へ」「日本主義から国際主義へ」このような変化がどういうことを改善し、何を積み残したのか、そこから今後の教育の方向性が見えると考えます。

「軍国主義から平和主義へ」
 平和を標榜するのはとてもいいことです。しかし戦後50年経って日本は占領された国どころか、世界のリーダーの一員としての行動を求められる立場にある。そういう意味では国際的な関係を軍事的な面からも考えていかなければいけなくなっているのに、軍隊アレルギーから軍事に関することを頑なに避け続けている。瀋陽の亡命事件のお粗末さは世界の笑いものですまないし、平和ボケも凄みさえ感じられるとしか言いようがない。)
 
教育基本法に「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。」とありますが、それを実現するための国家と個人の関係は曖昧ではないでしょうか。それは戦後GHQの占領時にできた法律であるだった為ですが、戦後50年経っても教育が教える国家と個人の関係が曖昧なままなのと今回の瀋陽の亡命事件がなんらかの関係を持っているのと考えざるのは自然だと思うがどうだろうか。
 
私たちはもっと国民としての義務と権利を子供たちにどう教えてゆくのかを、議論すべきであると思われます。

「全体主義から個人主義へ」
 教育基本法に「個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ」とありますが、滅私だけではなくて、「私」というのも大事にしなければいけないというのが戦後の一つの方向性だったと思います。しかし結果的に個人の価値が突出し、個人主義というよりは自己責任を忘れた利己主義にいたってしまった。というのが問題になっています。
 したがって個人の価値を尊重すると同時に、「勤労と責任」の中身を明らかにして具体的に示してゆくべきであると考えます。その際に「父母に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦も仲睦まじく、友人とは信頼しあい、礼儀を守り、自らは身を慎み、人々には博愛の心で親切にし」と言う教育勅語の一文は、国民としての協調性を考える上で一つの指針となり得る輝きを放ってはいないだろうか。

「国家神道体制から社会の非宗教化へ」
 基本法に「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」とあります。
 国民の思想信条の自由が保障されたのはいいけれど、宗教というのはどこかうさん臭い、という風潮が蔓延してしまったのを教育の制度的欠陥として捉えなおさなければならないのではないかと考えます。つまりは結果的に宗教・信仰は胡散臭い、それよりこんな勉強をすれば、・・・・といった構造になっていたのではないか。
 その意味で教育から神道を完全に抹殺したままでいいのかについてはこれから議論が必要であると思われます。
 つまり日本は自らの最も伝統的な宗教を教育から抹殺してしまった。しかしこれから日本人としてのアイデンティティを考えてゆく上で、国際化に対応する意味でも極めて重要な問題であるので、せめてこの問題について学ぶことができる制度位は必要ではないかと考えています。(極端な話ではあるがイスラム国家が、キリスト教圏の国が戦争に負けてその宗教を放棄したかどうかよく考えるべきだと思います。)
 

「日本主義から国際主義へ」
 教育基本法の前文に、もとの案では「伝統を尊重し」というのがあったと言われていますがが、GHQに削られてしまったのは有名な話ですが、結果日本だけがすばらしいというところから抜け出したのは良かったのですが、日本を忘れてしまった。伝統、先人の業績等日本人としてのアイデンティティ抜きに、アメリカに迎合するところに、真の国際化はありえないのではないでしょうか。
 先ず我々の足元(伝統)を見直し、日本人としてのアイデンティティの確立のために必要なことについて議論を行うのが筋であると考えます。
(続く)

2002/5/27代表取締役 長田 有弘